投票と貯金とミクロとマクロ

経済学だと個人の行動のようなミクロの現象と、社会全体でのマクロが違っているように扱われることがあります。例えば個人が倹約して貯金することは良いことでも、皆が貯金すると経済を停滞させるので良くないという合成の誤謬みたいなものがあります。これは、一見するとミクロとマクロで違った法則が適用されるようにも見えますが、単にミクロで無視しているものがマクロでは無視できなくなるという説明も可能です。
例えば大きな船で1人がジャンプしたときにも船は揺れるのだけれどもわずかなので無視してもかまわない。しかし皆が一度にジャンプすると船の揺れは無視できないほどの大きさになる。これは1人のときには無かった物が表われたのではなく、小さくてわからなかったけれどもあった物がまとまってわかるようになったということです。


選挙による投票というのもこれと似たところがあります。1人の一票が当落に関係するとは思えず、投票してもしなくても影響は無いかのようです。しかしこれも影響が無いわけではなく、わからない程度のわずかな影響があって、それが多数集まることで選挙の結果が決まります。つまり経済の合成の誤謬みたいな感じでの一票の誤謬みたいなものがあって、ミクロの行動の集まりがマクロを決めているのだという現実を認識することが出来ないことによって、個人の投票に価値が無いかのように思ったりするわけです。


国というのも同じで、沢山の人が集まった結果として国があるわけで、個人と関係の無いところに別に存在するわけではありません。ミクロとしての個人の考えや行動は国には影響を及ぼさないかのように思えたとしても、国というマクロの存在は個人というミクロの総体として成り立っているので、個別には無視してもかまわないような小さなことが集まって全体を動かしているということです。