答え合わせ

http://www.cml-office.org/archive/1227360683186.htmlの「finalvent氏の不誠実さについて Archives」に書かれていた以下の部分などから連想したこと。

普通は、テストをするときは、終わったら採点して講評するもんだと思うが……。他人の反応だけみて参考にするっちゅうのは、それ、テストちゃう、アンケートや。

http://www.cml-office.org/archive/1227360683186.html


学校で行うテストの場合には、必ず解答がある*1が、実際にはそういう問題はほんの一部で答の無い問題もある。そして、解けるかどうかすら不明な問題がある、といったことを森博嗣のエッセイで読んだのを思い出しました。同じようなことを何度か書いていたと思うのですが、検索して見つけたものを2つ紹介しておきます。

2007年12月03日(月曜日)
【算数】 解けるか解けないか、それが問題だ
 算数・数学の問題には2とおりある。解ける問題と解けない問題だ。
 入学試験の問題を作成するとき、解けない問題は絶対に許されない。入試要項に「解けない問題は出題されません」と明記されているわけでもないのに、どうしてだろうか。入試委員で何度も数学を担当したが、とても不思議だった。

(略)

 問題を正確に解くことよりもさらに重要なことは、その問題が解けるか解けないかを判断することだ。子供たちに、必ず解ける問題しか与えないことは、教育的にいかがかと僕は思う。

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/12/post_1542.php

2008年09月19日(金曜日)
【理科】 実験に関する2つの誤解
 小学生のときから、理科の授業では実験がつきものである。こういった経験を積んで大学生になった学生たちに対して実験の授業をすると、次の2点において、彼らが誤解していることに気づく。
 まず、測定が終了したときに、彼らは「終わった」と思うようだ。これは間違いである。測定が終わっただけ。データが採取されただけである。実験とは、そのデータを考察する行為まで含まれている。したがって、そのあとの作業(たとえばレポート作成)の方がむしろ実験の本質である。
 もう1点は、やはり測定が終わったときに、彼らが口にする「先生、これで成功ですか?」という質問である。これは、彼らがイメージしている実験が、「こうなるべき答があるものを実際に自分でやってみること」だからだ。
 たしかに、授業の実験の大半はそのとおりであり、「こうなるべき」結果があらかじめわかっている。答が存在するのだ。しかし、卒論や修論で行う実験には、模範解答はない。そもそも、「どうなるかわからないから実際に試してみること」が実験なのである。ようするに、彼らが持っている認識は「実験」ではなく「体験」にすぎない。
 大学生の卒論になって、つまり論文を書く段階になって初めて「実験」になる。これは、図書館で本を調べることが「研究」だと誤解しているのと同じだ。日本の子供たちは皆、「実験」も「研究」も知らずに大学生になるのである。

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2008/09/post_2124.php


それから、何かの答えがわかった場合に、解答を見て答え合わせをするのでは、本当にわかったたということにはならない。といったようなことも、読んだ記憶があります。答がわかったということは、それ自体によって合っていることが証明できたということで、それで充分だということです。ただ、この逆は成り立たないというか、自分では間違いなく合っていると確信していても、それが正しいかどうかはわからないかもと感じました。

学科の中では【算数】が一番反響が多い。念のために書いておくが、自分で答を導いても、掲示板に書いたり、メールを送ってきたりしないように。僕はもちろん答を知っている。もし解ければ自分で正しいことくらいわかるだろう。もし正しいか正しくないかわからなかったら、それは間違いである。算数の正解とはそういうものだ。万が一、間違ったものを正解だと思い込んでも、べつに支障はないから気にしないこと。そんなことは日常茶飯事である。

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/02/post_943.php

60%くらいの人が、これこれこういう理由で「たぶん、こうだと思います」という表現で答を書いてくる。これは、算数には馴染まない言葉である。たとえば、「1+1=?」と聞かれて「たぶん、2ではないかと私は予測します」とか「なんとなく、2じゃないかって気がしますが」という返答があった場合、「まあ、予測は自由だし、どんな気がしてもけっこうです」と答えるしかない。当然ながら、これが試験であれば、いずれも不正解にする。そういう曖昧なものではない。つまり、1+1の答は、人間がどんな気分になるか、ということには無関係なので、関係のないものを持ち出すことが、既に誤りだといえる。

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/03/post_1060.php


似たような部分があるものとして、最近読んだこれも思い出しました。

繰り返しますが、どれほどたくさんの知識を与えられたとしても、自分が直面した問題をどのように解決するかは、自分にしか決められません。

自分が求めて得た知識ではなく、誰かから一方的に与えられた知識では、自分の問題を解決する役には立たないのです。

http://d.hatena.ne.jp/pollyanna/20081114/p1


自分で考えるというのが大切だというのはその通りだとして、その結果が正しいかというのは微妙なところです。最初に紹介したエントリーに書かれているテストというのは、http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20081117/1226930161の「偽科学発見テスト - finalventの日記」に書かれたものですが、脚気についての理解を結核に適用してこういう風に考えることができたりもします。


脚気の原因が栄養素の不足であるのと同様に、結核の原因も同様に栄養素の不足である。これは、バランスの良い充分な栄養ととって静養することで結核が回復することからわかる。また、ペニシリンの注射によっても結核が治ることから、ペニシリンに不足している栄養素が含まれていることもわかる。


これはまあ正しくない解釈でしょうが、それを正しくないとするための説明が脚気の原因が栄養素の不足であるというのまで正しくないと説明するのに使えるとしたら、その説明も正しくないとすべきかなと思ったりもします。

*1:二次方程式には「解なし」というのもあるけど例外的か。