真の本質の正体
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次の質問に答えてください。
1,宗教の本質とは何か?
2、生命の正体は何か?
3、真の幸福とは何か?
この三つの質問への回答には、条件をつけます。(説明できない・人それぞれである)といった回答は無しとします。それから、回答にはそれが正しいとする確かな証拠を必ず示して回答してください。曖昧な回答は不要です。URLはダミーでも結構です。
この質問で、”宗教(or生命or幸福)とは何か?”ではなく、「本質」「正体」「真の」というった形容詞が付いている。これらの言葉は、良い意味で使われることが多いのだろうが、逆にうさんくさく感じることもある。
「真の幸福」といった言い方などは、使い古されている気もする。真の幸福があるのなら偽の幸福もあるのだろうか。幸福が偽ならば不幸だろう。それならば幸福にあえて「真の」などとつけることの意味はいったいなんだろう。
「生命の正体」は、それほど変でもないが、見たままの、あるがままの生命でなくて、何か隠されている秘密とでもいった意味だろうか。
「宗教の本質」という質問は、本質があるという前提にたっている。まあ、本質など無いというのなら、それこそが本質とも言えるが、その場合は本質を問うことが本質から外れていることになるのかも。
宗教と宗教でないものの差はなんだろうか。もうすぐクリスマスだが、これはキリスト教の行事だ。それ以外の宗教の冬至の祭りをもとにしていて、いろいろ混ざっているが、クリスマスという呼び方をしている限りはキリスト教の行事だろう。
クリスマスにプレゼントを贈ったりする風習は、キリスト教と関係なく広く行われているが、それでも宗教に関連しているとも考えられる。
生命と非生命についても考えてみたい。さっきまで生きていた人と、死んでしまった人の違いはなんだろう。動いているパソコンと、動かないパソコンの違いのようなものなのか。
パソコンなら、一度電源を落としても、またスイッチを入れれば動作する。もし、一度電源を落としたら二度と立ち上がらないパソコンがあったら、それは生命に似ている気がする。
幸福と不幸に違いはどこにあるのか。幸せだと感じることが幸福だが、これは単なる言葉の言い換えに近い。あえて違いをみつければ、幸せだと感じるには、それを感じる人が必要だということだ。そうすると、「私が幸せだと感じる、故に幸福である。」と言えるのだろうか。
「アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)」の主人公チャーリーは幸せにくらしていたが、医学実験の結果、頭が良くなり、自分が不幸であるということを理解できるようになった。