心理的コスト

“戦争における「人殺し」の心理学”という本に関してです。作者のデーブ・グロスマンは、軍人で勲章をもらったことさえあるようですが、それでも本人の書くところによれば人を殺したことは無いそうです。また、人を殺すことについて研究した他の人もそうであろうと書いています。
実際に人を殺したことが無いにもかかわらす、人を殺す事について研究するとことを、セックスを学ぶ童貞の世界に例えています。実際にそういう風に言われたこともあるようです。

戦闘の精神的外傷に関する心理学理論について、ある気むずかしい軍曹と話し合ったことがある。彼は馬鹿にしたように笑い出し、「そんなやつらになにがわかるもんか。童貞どもが寄ってたかってセックスの勉強をするようなもんじゃねえか。それも、ポルノ映画ぐらいしか手がかりはないときてる。たしかに、ありゃセックスみたいなもんだよ。ほんとにやったことのあるやつはその話はしねえもんな」
(41ページから引用)

この例えは、なかなか面白いと思います。また、逆にも使えるかもしれません。この本では人を殺すことをセックスに例えていますが、セックスを人を殺すことに例えることも出来るはずです。
今の社会では、セックスをすることが当然で、それに異を唱えることは許されないようです。戦場で人を殺す事に異を唱えることが許されないように。この戦争はいつまで続くのだろう。そして終ることはあるのだろうか…。みたいなのとか。

話を人殺しに戻しましょう。人を殺すことへの抵抗感は非常に強いものです。第二次世界大戦の戦闘でアメリカ兵のライフルは15から20%しか発砲していないという調査結果もあるくらいです。
そして、銃などの離れた場所からでなく近距離になると抵抗感はさらに高まるようです。そして素手であればなおさらのようです。

 ある空手の指導者は、上級の生徒にこの殺人法を指導するとき、敵役の目にオレンジを当てるか、テープで留めるかしておき、そのオレンジに親指を突っ込ませるという方法をとっている。殺人行動を正確に練習・模倣するこの方法は、戦闘で実地にその行動ができるようにするうえで非常にすぐれている。
(230ページから引用)

こういったことを読んだり、想像するだけでも抵抗があったり、嫌悪を感じる人も多いのではないでしょうか。この話を読んだあとでは、テーブルの上にあるオレンジにさえ指を突っ込ませることは出来ないかもしれません。
しかし、殺人を訓練するのに本当に人を殺すわけにもいかないので、いろいろな方法を考えるものです。これもセックスについてあてはめて考えることも出来るかもしれませんが、具体的なことは書かないでおきます。


匿名性と集団免責について書かれていることも興味深いです。集団が匿名性の感覚を育てることで殺人を可能にするというのです。

「人間界でもたいていそうだが、動物の世界に見られるこのような無意味な暴力は、個ではなく集団によって行われる」。
 コンラート・ローレンツは言う。「ひとりでは殺せないが、集団なら殺せる」。
(255、6ページから引用)

これは殺人にかぎらずに他のことにもいえると思いました。何かをするときに、ひとりでもやるのか、集団だからなのかを考えてみることも必要です。


第二次世界大戦で15から20%だった発砲率を、ベトナム戦争で90から95%までに高めた訓練法についても書かれています。

この驚くべき殺傷率の上昇をもたらしたのは、脱感作、条件づけ、否認防衛機制の三方法の組み合わせだった。
(390ページから引用)

そういった発砲率を高める訓練が、軍隊や警察だけでなく、一般にもあることの問題についても書かれています。

 現代の軍隊は、飛び出す標的とすばやいフィードバックによって兵士の訓練をおこなっているが、現代の子供たちが遊んでいる対話型テレビゲームには、それとまったく同じオペランド条件づけの訓練場を見いだすことができる。しかし、青年期のベトナム帰還兵には、権威者に命令された場合のみ発砲するように刺激の識別装置が組み込まれていた。テレビゲームであそぶ若者たちの場合、その条件づけにはそんな安全装置はまったく組み込まれていない。
(463ページから引用)

ゲームに対する批判としてはありきたりといってもいいと思いますが、実際に人を殺すのに役に立った訓練だということを読んでからだと説得力が増します。しかし、兵士の訓練で権威者の指揮という安全装置が組み込まれているのならば、同じような安全装置をゲームに組み込むことも可能なはずです。
一方で帰還兵の暴力を否定していながら、ゲームの危険性のみを問題にするのはどうかと思います。
また、ベトナムの子供が、手榴弾を投げるように訓練されていたということも412ページに書かれています。ベトナムの子供はテレビゲームをしていたわけでは無いでしょう。


訓練によって、人を殺すことができるようになったとして、何も感じなくなるわけではありません。何らかの方法でそれを合理化する必要があるようです。
ベトナム戦争では、人を殺す為の訓練は行われてめざましい効果をあげました。しかし、人を殺した後の殺人の受容と合理化についてはうまくいかなかったようです。第二次世界大戦に比べてもそうです。
勝って、国をあげて歓迎された第二次世界大戦の兵士に比べて、負けて、そのうえ非難されたベトナムの兵士の問題についても書かれています。ある兵士などは、空港で唾をはきかけられたと書かれています。
このアメリカのベトナム戦争の兵士の問題は、日本だと第二次世界大戦の兵士の問題に近いのかもと思いました。


原題は"ON KILLING :The Psychological Cost of Learning Kill in War and Society"なので、直訳すれば「殺すこと 戦争と社会で殺しを学ぶことの心理的コスト」とでもなるのでしょうか。

すなわち、なぜ人は人と戦い殺すのかということ、だが等しく重要なのは、なぜ人は人を殺さないのかということだ。
(504ページから引用)


戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)