「鏡の法則」に対する違和感の理由

http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20060710#1152533816に書かれていた「鏡の法則」に関連した話に関したこと。

ですが、ぼくが件のエントリで取り上げたのは、その「納得の仕方」、なにを根拠に納得したのか、についての話なんです(ちなみに引用された本は買って読んでます)。「量子もつれ」でなければ「TVがなぜ映るのか」でもいいのです(TVは「いかに生きるべきか」にあまり関係ないかもしれないですが)。TVの映る原理を説明できる人はそう多くないと思いますが、まぁ多くの人はそんなこと気にせず(納得して)使っているわけです。なのに、なぜ「鏡の法則」の場合に限り、「原因と結果の関係がおかしい」とかいきなりカガクっぽいことを言い出すんだろう、ということを言いたかったのです。


リンク先の話に対して、「TVは動作原理を知ろうが知るまいが映る。信じるかどうかにも関係ない。」などと反論することは簡単です。しかし、「なぜ」という疑問については考えさせられます。

鏡の法則」の原因と結果の関係がおかしいと批判する人は、新年の初詣とかについてはどう考えるのだろう。

初詣以外にも、原因と結果の関係がおかしいというか無いと考えられるものは他にもあります。お守りも、科学的な根拠は何もありません。七夕飾りの短冊に願い事を書いたりするのもそうです。四葉のクローバーとかはどうでしょう。

逆に考えると、因果関係が無かったりするのに信じられていること。特に批判を受けない事柄もあるのに、「鏡の法則」が非難されるのはなぜだろうと問うこともできます。結果には原因があるという考え方をすれば、非難されるという事に対する理由があるはずです。
「原因と結果の関係がおかしい」という理由は正確では無い。少なくともそれだけではないと考えられるのですが、ではその理由は何でしょうか。


物語に対する批判という観点から考えることも出来ます。イソップ物語で動物が言葉を話すのは、事実に反しているおかしなことだと批判することにはあまり意味がありません。お話として、寓話として動物を登場人物にしているというのは基本設定なわけです。
同じように、「もののけ姫」を見て、「動物が話すわけはない。」とか「呪いなんてあるわけない。」批判する人はいないでしょう。デスノートに対して、「ノートに名前を書くと、書かれた人が死ぬというのは原因と結果の関係がおかしい。」という批判はどうでしょう。
同じように「鏡の法則」を物語としてとらえるならば、その基本設定に対して異をとなえることにはあまり意味がありません。もちろん、物語の内容に対して批判することは出来ますが、それはその物語の基本設定を受け入れた上でのことです。