祈りと因果関係

水の入った容器を2つ用意して、ひとつの下には「平和」と書いた紙を置き、もうひとつには「戦争」とかいた紙を置いたとします。その場合に、2つの容器の水になにか違った変化は現れるでしょうか。例えば「平和」の紙を置いた方の水を凍らせた場合に、奇麗な結晶になるとか。
そんなことはあるはずないと思いますが、それでは平和への祈りは何か「平和」に対して変化をもたらすでしょうか。
「平和への祈り」と「平和」とには因果関係は無いように思います。相関関係については調べてみないとわかりませんが、無さそうな気がします。もしかしたら、平和で無い場合の方が平和を祈ることが多いことから、逆相関が成り立つかもしれません。つまり「平和への祈り」と「平和でない状態」に相関関係があるかもしれないということです。
別に「平和への祈り」を否定するわけでは無いですが、効果がありそうにない点では「ニセ科学」と大差ありません。効果の無さでは戦勝祈願のような勝利への祈りも同じです。

お盆の行事のような宗教的な行事も、慣れ親しんだものとしてではなく、それが何を目的とするものなのかを事実に基づいて考えると変なものとも思えます。
http://www.faireal.net/articles/7/05/#d30206にある「なぞめいた話(ゴルキ公園地区で)」は、お盆のことだとは書いていませんが、外部から見たお盆をもとにした話のようです。

因果関係のはっきりしない、おそらくは無いと断定してもいいことがらを、なぜ信じるのかと考えると不思議な感じです。これは非科学的なことを認めないというのではありません。逆に、非科学的と思われることでも、それを信じるのならば、理由があるのではないかということです。ある非科学的なことが認められ、別の非科学的なことが認められないとするならば、何か違いがあるはずです。その「何か」は何だろうと考えるのです。

「祈り」のようなことを全く信じない、いわゆる「合理主義者」がいたとして、その人に対して「あなたを呪い殺したいので髪の毛を少しもらえないか。」と頼んだら、応じてもらえるでしょうか。「呪い」を信じないのならば、誰かに呪われても実害は無いはずです。