眉唾で読むべしとかかれた意見も眉唾で読むべし…(以下省略)

http://d.hatena.ne.jp/otsune/20061009の人間という動物は「死」に対して本能的に感情を揺さぶられるんだから「死んじゃうんだよ」と書かれた意見は眉唾で読むべし」に関して。

あと「子供が難病で死にますよ(だから死ぬ死ぬ詐欺とか言うな)」であれば「デポジットつまれて順番抜かされて死ぬ現地の子供は?」「そもそも、大勢のヒューマニズムを煽るんなら、その場の解決にしか成らない寄付のゼニ回収じゃなくて、医療の法制度改革に対する圧力に向けさせなきゃ意味なくね? それ法改正されたら寄付金団体の存在意義無くなるからって、わざと伏せて無い?」とか。(ただトリオ・ジャパンに関して言えばTRIO JAPAN 出版物などで移植医療に関する情報発信をしていない訳ではない。ただ募金の前に移植医療についても大勢を考えさせろよ!という本末転倒へのツッコミは入ってしまう)


その場の解決さえ出来なくて何の為の制度改革なんだろうなんてことを思いました。本末転倒の何が「本」で何が「末」なのかについても、人の意見を鵜呑みにしないで自分で考えることが大切だなと感じました。
しかし、例えば交通事故で子供を失った親が、その後交通改革の為に尽力したりするように、ある種の代償行為による救いの効果というものはわからなくもありません。また、望ましい方向への制度改革自体が悪いことではないというのも勿論です。

一見論理的に感じられることが必ずしもそうでないこともあります。たとえば、1人の命と10人の命なら10人の命を救うほうが優先されるというのは論理的に感じられます。だからといって、10人のそのままでは死んでしまう病人を助けるために、健康な人から臓器を取り出して移植することで10人の命を救い、そして1人の死をもたらすことは論理的ではないように思えます。では、1人の死について「その悲惨な死を回避したせいで、他の悲惨な死が起こる事に成らないか?」とカウンターで考えたらどうでしょう。


(10月11日追記)
コメントで指摘のあったよく読み取れないという部分について説明してみます。

>10人のそのままでは死んでしまう病人を助けるために、健康な人から臓器を取り出して移植することで10人の命を救い、そして1人の死をもたらすことは論理的ではないように思えます。

ここで想定している具体的作業を箇条書きにしてみます。
1.健康な人を一人選んで必要な臓器を摘出する。結果としてこの人は死にます。
2.摘出した臓器を10人の病人に移植します。結果として10人は助かります。

単純に人数で考えれば11人の内1人が死に10人が助かる場合と、10人が死に1人が助かる場合では、10人が助かる方が望ましいとするのが論理的です。これはなるべく多くの人の命を救うことが望ましいとする前提から導きだすことが出来ます。
ただ、上に書いた方法で1人を殺して10人が助かるとしても、それは論理的とはいえないのではないか。ということです。

主な目的としては、「その悲惨な死を回避したせいで、他の悲惨な死が起こる事に成らないか?」とカウンターで考えることを鵜呑みにした人に対する極端な反例を提示することです。


しかし、これが10人の人がいてその全員に行き渡る十分な食料があって、けれどそれを1人が独占している場合に、残りの9人が飢え死にするか食料をうばうかという場合は、別の回答になりそうです。