神は存在せず

山本弘著の「神は沈黙せず」に関して。内容にもふれています。最近文庫になったのですが、読んだのは単行本の方です。

この本では、世界は神のシミュレーションだという設定によって書かれているように読めます。しかし、本当にそうなのでしょうか。この本は最初から最後まで一人の人物の一人称で書かれています。地の文で書かれている内容ならば小説としては疑いないと判断できます。例えば、梶尾真治著の「黄泉がえり」には宇宙生物が登場して、本編で発生する不思議な現象の謎解きになっています。これは小説中の登場人物は知る由もないことですが、読者はいわば神の視点から黄泉がえり現象の理由を知っているわけです。
「神は沈黙せず」ではこの神の視点が全く存在しません。だから、神が存在するかどうかもはっきりしないわけです。
神の視点が無いから神が存在しないというのは、言葉遊びのようですがそうではありません。小説の登場人物が信じていることは疑いないとしても、それが事実かどうかはわからないのです。


以下、世界がシミュレーションだという小説内での説に反論してみます。まず、もしシミュレーションだとすると不自然な点があるということです。
プラネタリウムのような物が存在するということは、その中で見ている人は現実である可能性がかえって高いと考えられます。プラネタリウムに星を投影するのにもそれぞれの星の位置や光度などのデータは計算する必要があり、もし全てがシミュレーションならばそのデータを使ったほうが簡単で、それをさらにわざわざプラネタリウムに投影するということをシミュレートする必要はないからです。
むしろ、フェッセンデンの宇宙のような小さな人工宇宙のような場合にプラネタリウムは存在する意味が出てくるのではないでしょうか。もしくは人工宇宙でさえなく、宇宙の一角を仕切って実験しているだけとも考えられます。その場合に、外側を見ることができないようにプラネタリウムのような物を作ってカムフラージュするというのは不自然ではないでしょう。


また、今までの科学で説明できない現象が起きたからといって、それが世界はシミュレーションであると証明するわけではありません。それは、小説中で批判されている予断を持った考え方なのではないでしょうか。
しかし、世界がシミュレーションがどうかを調べるのはかなり難しい、不可能に近いのではないかと考えられます。高度に発達したシミュレーションは現実と区別がつかない、というわけです。というか、比べるべき現実がない場合は何と区別をつけたらいいのでしょう。現実とは違う部分のあるシュミレーションがあったとしても、その内部で考えられるその世界の理論で考えればそれが現実と認識されるのではないでしょうか。例えば、「順列都市」に出てくるオートヴァース宇宙のように。
どんな世界でもシミュレーションである可能性はあるし、けれどそれは世界が五分前に創られたという説と同様に証明は出来ないのではないでしょうか。「銀河ヒッチハイクガイド」シリーズのように、神の言葉が岩に刻まれてでもいたら別でしょうが。


神は沈黙せず

神は沈黙せず


神は沈黙せず(上) (角川文庫)

神は沈黙せず(上) (角川文庫)


神は沈黙せず(下) (角川文庫)

神は沈黙せず(下) (角川文庫)