「傷付けられた」というあなたの声が誰かを傷付ける

http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20060903#1157269314にある「なにをしても、誰かを傷付ける。」に関して。

そういうふうにいろいろ考えると、これではもうなにも語れない、ということに気がつく。しかしそれもダメだ。「なにもしない」ということすら選択の結果なのだから、無視されている、ということで傷付けられたと感じる人がいるかもしれない(極めてありそうなことだ)。もはや何もできない、ということであなた/わたしが死を選択しても誰かは傷付くだろう。誰をも傷付けないためには、いっそ生まれてこなければよかったのか?(あなた/わたしが「いなかった」ことで誰かが傷付くだろうか?)


リンク先の文章の前提として、「誰かを傷付けることはいけない」というのがあるように感じました。傷付けられることを喜ぶ人のことを無視している。「ひどい、傷付けられた、うれしい。」と、傷付けられることを喜ぶ人は、無視されたことで傷付けられて喜んでいるじゃないかと思います。

ところで、なぜ誰かを傷付けることはいけないのでしょうか。法律は、殺人や傷害などの物理的に誰かを害することは罰則によって禁じています。名誉毀損などの精神的なものに対する法律もありますが、全ての誰かを傷付けることを禁じているわけではありません。

宗教も、法律と同じようにいくつかの誰かを害することを禁じていますが、これまた全てではありません。宗教の定めが誰かを傷付けることもあります。それをいえば法律もそうです。刑罰というのは、その対象を傷付けるものです。

倫理についても、法律や宗教と同じようなことが言えます。倫理による規定は、倫理に反したものを傷付けます。