目的の為に手段を選ぶ2

昨日書いた目的の為に手段を選ぶの続き。似たようなことを他でも読んでいたのを思い出しました。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/mercysnow/LinkDiary/links0610.htmlの真ん中より少し下の部分から引用します。http://www001.upp.so-net.ne.jp/mercysnow/LinkDiary/index.htmlの10月前半をリンクするとフレームも含んで表示されます。

佐藤氏はこう書いている。

 人に何かを伝えようとするのなら、わかりやすく箇条書きにしてチラシにでも書いて配れば充分でしょう(それさえも文学であり得るとは思いますが)。わざわざ詩にしたり、小説に組み上げたりする必要はありません。物語を読み手の頭に流し込みたければ、粗筋だけをできるだけ短く纏めればいいのです。それをわざわざ小説に書き延ばすのは、物語を伝えようとするからではなく、物語を場面に展開し、人と人、人と物、人と事を出会わせ、そこで起こる運動に言語による変速を加え、移行やコントラストで固有の形を作り出したいからです。(pp.17-18)

 ところが、本格ミステリは「できるだけ短く纏め」た「粗筋」だけで成立するものである。

 エラリー・クイーンフレデリック・ダネイが書いた「粗筋」をマンフレッド・リーが「小説」化するという工程で執筆をおこなっていたらしい。リーがスランプにおちいると、アヴラム・デイヴィッドスンシオドア・スタージョンが「小説」化を担当した。
 つまり、クイーン作品の本質はダネイが書いた「粗筋」にあるということになる。実際、『間違いの悲劇』(飯城勇三訳、創元推理文庫)では「粗筋」だけが刊行されている。

 では、「粗筋」だけで成立するものをなぜ「小説」として書くのか?

 これは非常に難しい問題なので、人はたいていダブルスタンダードを採用する。あるときは「粗筋」のみごとさを誉め、あるときは「小説」の豊かさを称えるわけだ。
 こうしたダブルスタンダードにいらだつと、二階堂黎人氏のように「トリックを中心とした技術への理解という教養主義が何よりも大事な要件となる」と反論したくなるのだろう。しかしながら、そんな二階堂氏も「小説」を書いており、決してトリックだけを「できるだけ短く纏め」て発表しようとはしない。

 正直、わたしもこの難問の答えはわからない。だから自分で書いて試してるんだ、と言うと卑怯でしょうか。


伝えたいものが粗筋やトリックだけの場合は、それだけを発表することもあってもいいと思います。例えば推理クイズのようなものは実際にあります。そして、表現の方を伝えたい場合は、前例のあるトリックなどでもかまわないということかもしれません。また、マジックに関する言葉で「カードを当てる方法を10通り知っていてもそれを表現するやり方が1つしかなければ観客は同じ物だと思う。しかし、カードを当てる方法が1通りでも、それを10のやり方で見せることができれば観客はそれを10の別のマジックだと思う。」というようなものもあります。何を伝えたいかによって、力を入れる部分が変わるわけです。


マンガなんかでも、ストーリーと絵のどちらがメインなのかは作品によって違うでしょう。ただ、これが極端になるとストーリーがメインなら粗筋があればいいとか、絵がメインならイラストでいいとかなってしまいます。そうではなく両方が必要で、さらにそうでなくては表現できない「何か」というのもありそうに思えます。